どれだけ幸せになっても、心のどこかが満たされない―
そんな気持ちになること、ありませんか?
欲しかったものを手に入れても、しばらくするとまた別のものが欲しくなる。
人とのつながりを求めながらも、誰かといると疲れてしまい、ひとりでいたいと思う。
そんな“満たされない心”に、私たちは時々、戸惑ってしまいます。
ピヨわかるー。
何かを手に入れても、またすぐ別のものが欲しくなっちゃうんだよね。
自分でも、欲張りだなって思うときあるよ。



うん、そういう気持ちって誰にでもあるよね。
でもさ、欲しくなるってことは、心がちゃんと動いてるってことなんじゃないかな。


でも、そうやって心が揺れるのは、悪いことじゃないのかもしれません。
むしろその「揺れる心」こそ、生きてる証なんだと思うんです。
800年前、鴨長明(かものちょうめい)という人も、まさにその“心のゆらぎ”と向き合いながら生きました。
鴨長明という人 ― 無常の時代を生きた孤独な心
長明が生きたのは、平安時代の終わりから鎌倉時代の初め。
戦乱や地震、大火、飢饉が続き、人々は「明日がある」と信じることすら難しい時代でした。
貴族の華やぎは消え、武士が力を持ち始め、“常”だと思っていたものが音を立てて崩れていく―
彼はまさに、「無常」を肌で感じながら生きた人でした。
下鴨神社の社家に生まれながら、神職の後継や昇進をめぐって不遇となり、しだいに世の嫉妬や欲に疲れ、「すべてを手放して心を静めたい」と願うようになります。
そして、山の奥にたった3メートル四方の小さな庵を建て、ひとり静かに暮らし始めます。


朝は行き来する船を眺めて歌を詠み、夕方には琵琶を弾奏する。
春の花、夏の鳥の声、秋の虫の声、冬の雪―。
自然とともに生きる日々は、彼にとって“心の自由”そのものでした。
『方丈記』には、肌で感じた季節の移ろいや安らぎが、穏やかな筆致で綴られています。
春は、藤波を見る。紫雲のごとくして、西方に匂ふ。夏は、郭公を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋は、ひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世を悲しむかと聞こゆ。冬は、雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障にたとへつべし。
出典:『方丈記 現代語訳付き 鴨長明』/角川ソフィア文庫
(春は、藤の花の波のように揺れるのを見る。それは弥陀来迎の紫雲に似て、西方に咲きはえている。夏は、ほととぎすのなくのを聞く。聞くたびに、死出の山路の案内をしてくれと、約束をしておく。秋は、ひぐらし蟬の声が、耳にいっぱいに聞こえる。その声は、はかないこの世を悲しんでいるものかと聞きなされる。冬は、雪をしみじみと見る。雪の積もったり、消えたりする様子は、人間の犯す罪障が、迷いによって生じ、懺悔によって消えるさまにたとえることができよう。)
ですが、私には、壮大な自然に包まれながらも、どこか静かな寂しさが感じられます。
ほととぎすの声を聞くたびに、死出の山路の案内を願うような思いになり、ひぐらしの鳴き声は、この世の儚さを嘆くように聞こえる、とあります。
もしかしたら、長明は、自然を愛でながらも、その中に人の生と死、無常の影を見ていたのかもしれません。
満たされないままの心 ― 長明が見つめた悟り
一見、心は満たされたようにみえても、長明は気づきます。
みづから心に問ひて曰く、世をのがれて、山林にまじはるは、心を修めて、道を行はんとなり。しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。
出典:『方丈記 現代語訳付き 鴨長明』/角川ソフィア文庫
(私自身の心に向かって問いを発してみる。ー長明よ、おまえが世俗から脱出して、山林に入りこんだのは、乱れやすい心をととのえて、仏道を修行しようがためである。それなのに、おまえは、姿だけは清浄な僧になっていて、心はけがれに染まったままだ。)
世を捨て、物欲を離れ、孤独に暮らしても心は完全には静まらなかった。



全部手放したのに、それでも心は満たされないなんて……
人の心って、どこまで求め続けるんだろうね。



うん、きっとそれが“人の心”というものなんだろうね。
人はどんなに満たされているように見えても、心の奥では、いつも何かを探し続けています。
鴨長明は、世俗を離れ、孤独の中で生きながら、そして最後に気づいたのは―
「心は完全には静まらない。それが人間なのだ」という真理。
彼の悟りは、何も持たないことではなく、どんな心もそのまま受け入れることでした。
満たされない日があっても、それでいい。
大事なのは、心というものはもともと満たされきらないもの、ということを知っておくこと。
揺れる心を丸ごと受け止めて生きていくことが、ほんとうの強さなのかもしれません。
『方丈記』に宿る生きるヒント


長明の言葉は、現代を生きる私たちへの「生きるヒント」にもなります。
どれだけ豊かになっても、どれだけ人とつながっても、心がふっと空っぽに感じる瞬間があります。
でもそれは、“欠け”ではなく“余白”。
「心の余白」は、次の喜びを迎えるためのスペースなんです。
その“すき間”があるからこそ、また何かを求めたくなる。
心が満たされないからこそ、人は次の一歩へ進もうとする。
だからこそ、人は成長していけるし、人生っておもしろいのかもしれません。
そんな“心の余白”と静かな前向きさを、鴨長明は800年前の山の庵で、ひとり体現していました。
長明が方丈で過ごした穏やかな時間は、何も持たないことを誇るためではなく、心の揺れを抱えたまま、それでも静かに生きていくためのものだったのです。
今日できることーいまの心をやさしく見つめてみる
今日、もし心がざわついたら、ほんの1分間だけ深呼吸をしてみる。
無理に心を満たそうとせず、「いま、私の心は何を求めているのかな」と、耳を傾けてみてください。
それだけで、不思議と心がやわらぎます。


どんな心もそのままでいい ― 『方丈記』のやさしい悟り
人の心は、いつも波のように揺れています。
喜びのあとに不安が訪れ、静けさの中にも小さなざわめきが生まれます。
それは決して悪いことではなく、「生きている」ということの証なのだと思います。
鴨長明は、どんなに遠くへ逃げても、自分の心からは逃れられないことを知りました。
それでも彼は、その“満たされなさ”を責めることなく、ただありのままに受け入れたのです。
完璧でなくていい。
満たされない日があってもいい。
自分の弱さを感じる夜があってもいい。
それを抱えたまま生きていける強さが、きっと心の奥にあるから。



うん…無理にがんばらなくてもいいんだよ。
ゆっくり、自分のペースでいこ。
『方丈記』がそっと教えてくれるのは、「心は整えるものではなく、受けとめるもの」だということ。
どんな心も、そのままでいい。
揺れながら、迷いながら、それでも前を向いて生きている―
その姿こそが、人としての美しさなのかもしれません。


ほんのひとときでも、心がゆるむ時間になっていたらうれしいです。
また何かのときに、ふとこの記事を思い出してもらえたら。


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