老荘思想とは何か−老子と荘子がそっと教えてくれる「休んでもいい」という考え方

ちゃんと生きているつもりなのに、なぜかずっと疲れている
頑張っていないわけじゃないのに、満たされない気がする。

そんな感覚を抱えたまま日々を過ごしていませんか。

あなたが疲れているのは、弱いからではありません。
ずっと「ちゃんとしよう」としてきたからです。

老子荘子の言葉を読んでいると、心が疲れたときに「少し休んでもいいよ」と静かに声をかけられているように感じることがあります。

彼らの思想は、生き方の答えをくれるものではありません。
何もしなくていいと、背中を押す言葉でもありません。

ただ、心の奥にそっと置いておきたくなる、温かい安心感のような考え方です。


目次

なぜ、ちゃんと生きているのに疲れてしまうのか

ピヨ

ちゃんと眠ってるはずなのに、なんでこんなに疲れてるんだろう…?

特別に無理をしているわけではないのに、ちゃんと眠ったはずなのに、朝から感じる疲れ
何かあったわけでもないのに、気持ちが重たい

そんな朝を迎えることはありませんか。

私自身、「今日は休もう」と思っていた日なのに、いざ何もしないでいると、どこか落ち着かなくなってしまうことがあります。

ソファに座っていても、頭のどこかで「このままでいいのかな」「何かしたほうがいいんじゃないかな」そんな声が聞こえてくる。

本当は休みたいのに、何もしない自分をどこかで責めてしまうような感覚です。

「自分が弱いのかな」「ちゃんとできていないのかな」そんなふうに、原因を自分の中に探してしまう。

でも少し立ち止まって考えてみると、私たちはいつの間にか、休むことにも理由が必要な空気の中で生きているように思うのです。

前に進んでいるかどうか。
何かを積み上げているかどうか。
役に立っているかどうか。

そんな基準が、当たり前のように並ぶ毎日の中で、休んでいるはずなのに心だけが休めていない。

気づけば私たちは、休んでいい理由をつい探してしまう。


老荘思想とは何か|老子と荘子の考え方のやさしい入口

老子や荘子の言葉を読んでいると、正直、生き方の正解を教えられているという感じはあまりしません。

「こうしなさい」と指示されるのではなく、「そんなに力を入れなくてもいいよ」と静かに声をかけられているような感覚。

老荘思想は、頑張り方を変えるための思想というより、心が疲れたときにそっと戻ってこられる場所のような考え方です。

ここからは、その中でも今の私たちの暮らしに重なりやすい言葉を、日常の感覚と結びつけながら見ていきたいと思います。


無為自然とは|無理にがんばらなくていいという老子の言葉

無為自然という言葉を聞くと、「何もしない」という意味に受け取られてしまうことがあります。

でも老子が語った無為自然は、怠けることでも投げ出すことでもありません。

無理に頑張ろうとしないこと。
流れに逆らってまで手を出さないこと。

そんな姿勢を表しています。

『老子』第24章には、こんな言葉があります。

企(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず。

(背伸びする人は長くは立っておられず、大またで歩く人は遠くまではいけません。)

出典:『老子・荘子』ビギナーズ・クラシックス 中国の古典/角川ソフィア文庫

不自然な行為は永続しない、そんな意味の言葉です。

すべてをありのままに受け入れることで、肩の力を抜いて生きる知恵を授けてくれています。

休みの日なのに何もしないでいると落ち着かなくなって、ついスマホを手に取ってしまったり、用事を作ろうとしてしまったり。

ミミ

何もしない時間があると、ちょっと落ち着かなくなるんだよね…

気持ちが乗らないなら、今は無理に動かなくてもいい。
体がしんどいなら、それに逆らわず休んでもいい。

そういう考え方なのだと思います。


足るを知る|無理に満たそうとしなくていいという老子の言葉

少し時間が空くと、気づけばスマホを手に取っている。
特に目的があるわけでもないのに、画面をスクロールして新しい情報を探してしまう。

役に立ちそうな記事。
知らなかった知識。
読んでおいたほうがいい気がする話。

そうやって情報を重ねていくのに、なぜか心は落ち着かないままです。

ニャム

情報は増えてるのに満足していない気がするよね〜。

こんなに集めているのに、本当に大事なことが、かえって埋もれて見えなくなっているような気がすることもあります。

老子は、第33章でこんな言葉を残しています。

足るを知る者は富み、強(つと)めて行う者は志有り。

(これでよしと満足することを知る人はほんとうに豊かな人で、努力して正しいことをする人は意志の強固な人です。)

出典:『老子・荘子』ビギナーズ・クラシックス 中国の古典/角川ソフィア文庫

いま自己に与えられた状況に満足することに真の豊かさはある、ということを老子は言います。

足るを知るというと、欲を持たないことや、我慢することのように感じるかもしれません。
でも、老子が伝えたかったのは、「減らしなさい」ということではなく、無理に満たそうとしなくていいという視点だったのではないでしょうか。

今の時代、世の中に溢れかえっている情報も同じかもしれません。

たくさん知っているはずなのに、まだ足りない気がしてしまう。
学べば学ぶほど、不安が減るどころか次の情報を探してしまう。

それは、情報が足りないからではなく、すでに持っているものをちゃんと受け取れていないだけなのかもしれません。

クローゼットの中がもういっぱいなのに、「着る服がない」と感じてしまうことも同じ。
体はひとつなのに、着る順番待ちの服ばかり増えていく。

情報も、物も、器を考えずに詰め込んでしまうと、何が大切だったのかが見えにくくなってしまいます。
満たそうとするほど、本質は見えなくなってしまう。

足るを知るというのは、今あるものを数えることではなく、これ以上入れなくても大丈夫だと一度立ち止まってみることなのかもしれません。

老子の言葉は、「これでいい」と言い切るための答えではなく、「もう十分かもしれない」とそっと気づかせてくれる言葉なのです。


胡蝶の夢|白黒つけなくてもいいという荘子の思想

はっきりさせたい。
答えを出したい。
どちらが正しいのか、間違っているのか。

気づくと、そんなふうに物事に白黒をつけようとしていることがあります。

あの選択は合っていたのか。
この生き方でいいのか。

考え始めると、頭の中がずっと忙しくなってしまいます。

荘子の「胡蝶の夢」は、そんな“考えすぎてしまう心”に、少し別の景色を見せてくれる話です。

あるとき荘子は、蝶になってひらひらと飛ぶ夢を見ました。
夢の中の彼は、自分が荘子であることも忘れて、ただ蝶としてそこにいました。

目が覚めたあと、荘子はふと考えます。

知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。

(荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であっていま夢を見て荘周となっているのか、いずれがほんとうか私にはわからない。荘周と胡蝶とには確かに形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりない。)

出典:『老子・荘子』ビギナーズ・クラシックス 中国の古典/角川ソフィア文庫

どちらが本当なのか、はっきりした答えは出ません。
でも荘子は、無理に結論を出そうとはしませんでした。

私たちはつい、「本当はどっちなの?」「正解は何?」と答えを探してしまいます。
けれど、夢の中で蝶だった時間も、目覚めて荘子だった時間も、どちらも確かに“あった”ものです。

白か黒か。
正しいか、間違いか。
意味があるか、ないか。

そうやって分けてしまう前に、ただ、そうだったという時間があってもいいのではないでしょうか。

何もしていない時間。
ぼんやりしていた午後。
理由はないけれど、なぜか心がゆるんだ瞬間。

あとから考えると、「意味があったのかな」と不安になることもあります。
でも、そのとき確かに少し息がしやすくなったならそれだけで十分だったのかもしれません。

胡蝶の夢は現実と夢の境界をあいまいにする話ですが、それは同時に、人生をきっちり整理しなくてもいいというメッセージのようにも感じます。

白黒をつけなくてもいい。
はっきり言葉にできなくてもいい。
今の自分が、蝶なのか荘子なのか、決めなくてもいい。

荘子は、答えを教えてくれる人ではなく、答えを探す手をそっと休ませてくれる人なのかもしれません。


無用の用|ただ存在しているだけでいいという荘子の思想

役に立つかどうか。
意味があるかどうか。
成果につながるかどうか。

私たちは何かを見るとき、ついそんな物差しで測ってしまいます。
けれど荘子は、その物差しそのものをそっと脇に置いてみようとします。

荘子の語る「無用の用」は、一見すると少し不思議な言葉です。
役に立たないものがどうして「用」になるのか。

荘子が見ていたのは、どんなに世間から役に立たないと言われようと、それが存在するからには必ずその存在価値はある、というものでした。

たとえば、有名な大きな木の話。

以て舟を為(つ)くれば則ち沈み、以て棺槨(かんかく)を為くれば則ち速やかに腐り、以て器を為くれば則ち速やかに毀(こわ)れ、以て門戸を為くれば液樠(えきまん)し、以て柱を為くれば則ち蠹(むしく)う。是れ不材の木なり、用うべき所無し、故に能く是くのごとく之れ寿(いのちなが)し


(あれで舟を作ると沈んでしまい、棺おけを作るとすぐに腐り、道具を作るとすぐに壊れ、門や戸にすると樹脂がふき出し、柱にすると虫がつく。あれは役立たずの木なのだ。使い途がないからこそ、あのような大木になるまでに長生きができるのだ)

出典:『老子・荘子』ビギナーズ・クラシックス 中国の古典/角川ソフィア文庫

木材としては使えない、曲がっていて節だらけで、世俗的には「無用」とされる木。
だからこそ、誰にも切られることなく、長い時間そこに立ち続けることができた。

役に立たなかったことがその木を生かしたのです。

私たちの時間や存在にも、似たところがあるように思います。

何も生み出していない時間。
誰にも評価されない時間。
ただ、ぼんやりと過ぎていく時間。

そんな時間は、意味がないように感じられてしまいます。

けれど、その「何もしない時間」があったからこそ、気持ちが整ったり考えが静まったり、自分の内面と向き合えたりすることもあります。

役に立たないからこそ、使われずに済む。
消費されずに済む。
急いで何かに変えられずに済む。

荘子の「無用の用」は、無理に価値を証明しなくても、ただ存在しているという事実そのものがすでに一つの在り方なのだと、静かに示しているように感じます。

役に立つかどうかより前に、意味があるかどうかを考えるより前に、「ただここに在る」ということが大事。

無用の用は、何かにならなくても、何かを生み出していなくても、ただ存在しているだけでいい時間や自分をそっと肯定してくれる思想なのかもしれません。


今日できること−少しだけ何もしない時間を持つ

今日はあえて「役に立たない時間」を5分だけ置いてみる。

・スマホを置く
・何もしない
・ぼんやりする

考えが浮かんできても、追いかけなくて大丈夫。
「これ、意味あるかな」と思ってもそのままで。

5分たったら、何も変わっていなくても大丈夫です。


心の奥にそっと置いておきたい老荘思想

老子や荘子の考え方は、何かを成し遂げるための方法を教えてくれるものではありません。

「もっと頑張れ」と背中を押す言葉でも、「今すぐ変わりなさい」という指示でもない。

むしろ、もう十分やってきた人に向かって、「そんなに力を入れなくてもいいよ」と静かに声をかけてくれる思想のように感じます。

無理に動かなくてもいい。
無理に満たさなくてもいい。
白黒をつけなくてもいい。
役に立たなくてもいい。

それは何もしなくていいということではなく、頑張っている今の自分にそんなに急がなくてもいいよと言ってくれているのかもしれません。

忙しい毎日の中では、こうした考え方を思い出す余裕もなく、またすぐに「がんばらなきゃ」という感覚に戻ってしまうと思います。

けれど、老荘思想を心の奥にそっと置いておくだけで、ほんのりあったかい安心感になる。

疲れたとき。
理由もなく息苦しくなったとき。
頑張っているのに、満たされないと感じたとき。

そんなときに、ふと思い出してもらえたら。

「力を抜いてもいいのかもしれない」
「今はこれでいいのかもしれない」
「疲れたら休んでいいのかもしれない」

そう思えたなら、それだけで今日という一日は少しやさしく終えられる気がします。

モコ

心のどこかにそっと置いておくだけで、気持ちが少し楽になるならそれで十分だよ。

ほんのひとときでも、心がゆるむ時間になっていたらうれしいです。

また何かのときに、ふとこの記事を思い出してもらえたら。

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この記事を書いた人

おしゃれなカフェより
家でのんびり本を読む時間が落ち着くうさぎ
静かな時間と、心に残る言葉が好き。
昔の人の生き方から
今を生きるヒントを探しています。

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