一生懸命やったのに、結果につながらなかった。
何年も続けてきたことが、何も残らないまま終わってしまった。
「あのがんばりは、なんだったんだろう」――。
そんなふうに、心にぽっかり穴があいたこと、ありませんか?
今回は、そんな心にお届けしたい一枚の風景があります。

330年ほど前、松尾芭蕉(まつおばしょう)が旅の途中で立ち尽くした、夏草の野原です。
そこで詠まれたのが、あの有名な一句でした。
夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡
(今、夏草深く生い茂るここ高舘は、昔、武士たちが雄々しくもはかない栄光を夢見た戦場の跡である。)
出典:『おくのほそ道(全)ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(角川ソフィア文庫)
教科書で見たことのある方も多いと思います。
でも、この句がどんな場所で、どんな涙のあとに詠まれたのかを知ると、見え方が変わってきます。
少しだけ、その場所の物語にお付き合いください。
黄金の都が、ひと眠りの夢に―平泉という場所
芭蕉が立っていたのは、岩手県の平泉(ひらいずみ)。
いまから900年ほど前、ここには京の都に負けないほど栄えた、黄金の都がありました。
築いたのは、奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)。
三代・約100年にわたって、戦のない豊かな土地を治めた一族です。
けれどその栄華は、源義経(みなもとのよしつね)をかくまったことをきっかけに、幕を閉じます。
義経は追いつめられてこの地で最期を迎え、藤原氏も滅ぼされました。

それから500年後。
芭蕉がたずねた平泉は、こうなっていました。
三代の栄耀(えいよう)一睡の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡(ひでひら)が跡は田野になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。
(三代にわたって築いた栄華も、ひと眠りする間の夢のように、はかなく消えた。当時の平泉の表門跡は約四キロも手前にある。それほどに平泉は広大な都市であった。秀衡の館(伽羅の御所)の跡は、今や田野に変わり彼の築いた金鶏山だけが昔の姿を残している。)
出典:同上
宮殿も、館も、大門も、みんな草の下。
100年かけて築かれたものが、風景ごと消えていたのです。
そして芭蕉は、義経たちが最期まで戦った高台(高舘)にのぼり、こう書き残します。
「国破れて山河(さんが)あり、城春にして草青みたり」と、笠(かさ)うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。
(「国は滅んでも山河は昔のまま、城は荒れはてても、春になれば草は緑となる」という句のとおりだと、笠を敷いて腰を下ろし、時がたつのも忘れ、悲劇を回顧しながら涙にくれた。)
出典:同上
ピヨ芭蕉さん、初めて来た場所で、500年も昔の人たちのために泣いたの?



そうなの。
会ったこともない人たちの、消えてしまったがんばりの上に座って、時間を忘れるくらい泣いたんだって。
消えてしまっても、「なかったこと」にはならない
ここで、少し考えてみたいのです。
藤原氏の100年も、義経の奮戦も、目に見える形としては何も残りませんでした。
結果だけを見れば、「報われなかった」の一言で終わってしまう物語です。
でも本当にそうなら――500年後に、旅人がひとり、草の上で泣くでしょうか。
形は消えても、そこに人が本気で生きた、という事実は消えない。
だからこそ芭蕉の心は動き、句が生まれ、330年たった今も、わたしたちはこの話をしています。



『結果が残ること』と『意味があったこと』って、別なんだね。



うん。
結果は草に埋もれても、本気だった時間そのものは、ちゃんと『あった』んだよね。
それは誰にも消せないの。
あなたの報われなかったがんばりも、同じです。
形にならなかった仕事も、実らなかった練習も、途中で終わった挑戦も。
結果が消えただけで、あなたが本気だった時間は、なかったことになっていません。
(がんばること自体に疲れてしまった日は、こちらの記事もどうぞ。→「がんばらなくても、大丈夫」西行がくれた、心をゆるめる名言)
それでも、残るものはある―光堂の句
実は、平泉で芭蕉はもう一句、詠んでいます。
すべてが草に還ったかに見えた平泉で、たったひとつ、建てられた当時のまま金色に輝き続けていたお堂――中尊寺(ちゅうそんじ)の金色堂(こんじきどう)。
人々が覆い堂(おおいどう)をかけて、守り続けてきた建物です。
五月雨(さみだれ)の 降り残してや 光堂(ひかりどう)
(すべてを朽ちさせるように、毎年降り続ける五月雨も、この光堂だけは遠慮して降り残したのだろうか。長い歴史を伝えるように、光堂は今なお燦然と輝いている。)
出典:同上
時が経てば、たいていのものは消えていきます。
けれど、誰かが大切に思ったものは、こんなふうに、時を越えて残ることがある。
涙の句と、光の句。
芭蕉は平泉で、その両方を詠んで旅を続けました。
眠っていた時間が、光になることもある
わたしもアクセサリー作家の仕事をしていて、思うように実らなかった時間をいくつも持っています。
たとえば、ひと目で気に入って買った資材があります。
いざ作ろうとすると、手が止まってしまうのです。
かわいいけれど、少し子どもっぽい。
わたしの作りたい大人っぽさとは、どうにも噛み合わない。
結局それは、引き出しの奥で眠ったままになりました。
ときどき開けては「どうしよう」とつぶやいて、また閉じる。
何も生まない時間だけが、過ぎていきました。
でもある日、ふと思ったのです。
合わせようとするから、合わないのかもしれない、と。
そこで、思い切って振り切ってみました。
子どもっぽさを隠すのではなく、そのまま前に出したデザインにして出品してみたのです。
そうしたら、思いがけないことが起きました。
たくさんの方が購入してくださって、制作が追いつかなくなるほどに。
でも、売れたことよりも、わたしが驚いたのは別のことでした。
引き出しの中で眠っていたあの時間は、無駄ではありませんでした。
迷って、手が止まって、何も生まれなかったように見えた日々が、そのまま、あの作品の下地になっていたのだと思います。


「あれは無駄だったな」と思っているものを、ひとつだけ取り出してみる。
・使わないまましまってある材料、途中でやめた習いごと、実らなかった仕事
・処分しなくていい。手に取って、少し眺めるだけ
・「まだ出番が来ていないだけかもしれない」と、心の中でつぶやいてみる
無駄になったのではなく、まだ使われていないだけ。
そう思えたら、今日はそれで十分です。



無理に捨てなくていいよ。
しまっておいたものが、いつか光る日が来るかもしれないからね。
「夢の跡」が教えてくれること
がんばりが報われなかった日、わたしたちは「全部無駄だった」と思いがちです。
でも平泉の夏草は、こう教えてくれます。
結果は消えることがある。
それでも、本気だった時間は消えない。
そして時々、光堂のように、思いがけないものがひとつだけ残っていたりする。
(欠けたもの、途中で終わったものを、それでも美しいと見た人が、700年前にもいました。→完璧じゃなくてもいい―『徒然草』がそっと教えてくれる「欠けたものの美しさ」)
いつかあなたの「夢の跡」にも、そっと腰を下ろして、いっしょに泣いてくれる人がいるかもしれません。
少なくとも今日、この記事を読んだあなたは、330年前の旅人がそういう人だったことを知っています。
ほんのひとときでも、心がゆるむ時間になっていたらうれしいです。
また何かのときに、ふとこの記事を思い出してもらえたら。


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『おくのほそ道(全)ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(角川書店編/角川ソフィア文庫)
この記事でご紹介した平泉の場面は、旅の中ほどに。「全」の名のとおり全文が収められているので、江戸を発つ日から旅の終わりまで、芭蕉の道のりをそのままたどれます。原文と現代語訳がセットなので、俳句がはじめての方にも。がんばりが実らなかったと感じる日の、静かなお供にどうぞ。
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