「ちゃんとできなかったな」と、一日の終わりに自分にバツをつけてしまうこと、ありませんか?
部屋の片づけも、仕事も、人とのやりとりも。
100点じゃないと、なんだか落ち着かない。
今回は、そんな完璧を求めて疲れてしまった心に、約700年前の随筆『徒然草』の一節をお届けします。
読み終わるころには、「欠けたままでも、きれいなんだ」と思えるはずです。

「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」―兼好法師の言葉
兼好法師(けんこうほうし)という人がいました。
鎌倉時代の終わりごろ、お寺にも宮中にも属しきらず、世の中を少し離れたところから眺めて、思いついたことを書き留めていた人です。
その随筆『徒然草』の第137段に、こんな一節があります。
花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは。
雨に対(むか)ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方(ゆくへ)知らぬも、なほあはれに情け深し。
咲きぬべきほどの梢(こずゑ)、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。(桜の花は満開だけを、月は満月だけを見て楽しむべきものだろうか。いや、そうとは限らない。物事の最盛だけを鑑賞することがすべてではないのだ。たとえば、月を覆い隠している雨に向かって、見えない月を思いこがれ、あるいは、簾を垂れた部屋に閉じこもり、春が過ぎていく外のようすを目で確かめることもなく想像しながら過ごすのも、やはり、優れた味わい方であって、心に響くような風流な味わいを感じさせる。今にも花開きそうな莟(つぼみ)の桜の梢や、桜の花びらが落ちて散り敷いている庭などは、とりわけ見る価値が多い。)
出典:『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(角川ソフィア文庫)
満開の桜だけが、桜じゃない。
満月だけが、月じゃない。
つぼみのままの枝にも、散ったあとの庭にも、ちゃんと美しさはある。
兼好法師は、そう言っているのです。
ピヨえっ、散っちゃった庭がいいの?
満開のほうがきれいじゃない?



そう思うよね。
でも『一番いいところ』を逃しても、そこにはそこの良さがある、ってことなのかもしれないね。
兼好法師という人―世の真ん中から、半歩離れて


そもそも『徒然草』を書いた兼好法師とは、どんな人だったのでしょう。
実は、生まれた年も、亡くなった年も、はっきりとはわかっていません。
鎌倉時代の終わりから南北朝へ。世の中が大きく揺れた、動乱の時代を生きた人です。
神職の家に生まれ、若いころは宮中に仕えていたといわれています。
けれど三十歳前後のころ、その地位を手放して、僧として生きる道を選びました。
おもしろいのは、出家したあとも、山奥深くにこもってしまったわけではないこと。
都の近くに暮らし、人とも交わりながら、世の中をじっと見ていました。
世の真ん中から、半歩だけ退いたところ。
そこから人間を見つめ続けた人なのです。
だからこそ、見えたものがあったのだと思います。
みんなが「満開」や「満月」に夢中になっているとき、その輪の少し外側から、つぼみや、散ったあとの庭の美しさに気づくことができた。
約700年たった今も彼の言葉が読み継がれているのは、その「少し離れたところから人を見るやさしさ」が、時代を超えてわたしたちに届くからなのかもしれません。



世の中から一歩引いていたからこそ、真ん中にいると見えないものが見えたんだね。
「盛り」だけを求めると、苦しくなる
兼好法師が生きたのは、華やかな平安の都の文化が遠くなり、世の中が大きく揺れていた時代でした。
「立派であること」「完全であること」をみんなが競う空気の中で、彼はあえて「欠けているもの」「途中のもの」に目を向けました。
これは、今のわたしたちにも、どこか重なりませんか。
SNSを開けば、誰かの「満開」の瞬間ばかりが流れてきます。
完成した作品、うまくいった仕事、きれいに整った部屋。
それを見て、「それにくらべて自分はまだ途中だ」と、ため息をつく。
(人と比べて苦しくなる夜のことは、こちらの記事にも書きました。→ 人と比べてしまうあなたへ|良寛が教えてくれる「比べなくていい」生き方)
でも兼好法師の目から見れば、つぼみの時間も見どころのまっただ中なのです。





たしかにね。
考えてみると、満開の桜って数日しかないんだよね。



そう。
ほとんどの時間は、つぼみか、散ったあと。
だったら、そこを楽しめたほうが、ずっと豊かなのかもしれないね。
欠けている時間こそ、人生の大部分
わたしはアクセサリーを作る仕事をしているのですが、頭で思い描いたとおりに新作が出来上がることは、実はそんなに多くありません。
デザインに凝りすぎて重さが出てしまったり、逆にシンプルにしすぎて自分らしさが出せなかったり。
「ああ、今日もダメだったな」と、作業机の上でひとり落ち込む夜もあります。
でもあるとき、ふと気づいたのです。
その「うまくいかなかった試作品」を眺めている時間が、いちばん次のアイデアをくれている、ということに。
完璧なものからは、もう何も生まれません。
欠けているものには、「ここから先」があるのです。
兼好法師が「咲きそうな枝先にこそ見どころが多い」と書いたのは、きっとそういうことなのだと思います。
今日、自分の中の「まだ途中のもの」をひとつだけ、責めずに眺めてみる。
・読みかけのまま積んである本
・手をつけられていない片づけ
・続いていない習慣
「まだつぼみなんだな」と心の中でつぶやくだけで大丈夫。
直さなくても、進めなくても、今日は眺めるだけでいいんです。



つぼみのままでも、ちゃんと枝についてるよ。
それでいいよ。
「花は盛りに」が教えてくれること
完璧な瞬間は、人生のほんの一部です。
ほとんどの日々は、咲く前か、散ったあと。
だからこそ兼好法師は、その長い「途中」の中に美しさを見つける目を、わたしたちに残してくれたのかもしれません。
今日うまくいかなかったことも、まだ手つかずのことも、欠けたままのあなたの一日も。
約700年前のひとりの法師は、「そこにこそ、見どころが多い」と言ってくれています。
ほんのひとときでも、心がゆるむ時間になっていたらうれしいです。
また何かのときに、ふとこの記事を思い出してもらえたら。


※広告を含みます
『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(角川書店編/角川ソフィア文庫)
「花は盛りに」の段は第137段。欠けたもの、途中のものに美しさを見つける目を、700年前の兼好法師が教えてくれます。原文と現代語訳がセットなので、気になった段からぱらぱらと。完璧を求めて疲れた夜の、静かなお供にどうぞ。
紙の本で読む
電子書籍で読む




コメント