送信ボタンを押した直後に、誤字に気づいた。
旅行の最終日、帰りの駅の階段でつまずいた。
ずっと気をつけていたのに、「もう終わったも同然」と思った瞬間に、やってしまった――。
そんな経験、ありませんか?

しかも不思議なことに、失敗するのはいつも、難しい場面ではなく簡単な場面なんですよね。
今回は、その謎を700年前にきれいに言い当てた人の話をお届けします。
『徒然草(つれづれぐさ)』第109段、「高名(こうみょう)の木登り」と呼ばれた名人の話です。
「あやまちは、やすき所になりて、必ず仕ることに候ふ」
まず、名人の言葉から。
過(あやま)ちは、やすき所になりて、必ず仕(つかまつ)ることに候ふ。
(失敗というものはきまって、なんでもないところで、やらかすものなんですよ。)
出典:『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(角川書店編/角川ソフィア文庫)
危ないところではなく、「やすき所」=簡単なところで、必ず。
「必ず」とまで言い切るこの言葉が、どんな場面で生まれたのか。
兼好法師(けんこうほうし)が書き留めた、その一部始終を見てみましょう。
高い枝では黙っていた名人が、軒先で声をかけた

あるところに、「木登りの名人」と呼ばれた男がいました。
その名人が、人に指図をして高い木に登らせ、枝を切らせていたときのこと。
見ているだけでひやひやするような高さにいるあいだ、名人は何も言いませんでした。
ところが、仕事を終えた男が降りてきて、軒先ほどの高さ――もう飛び降りられるくらいの低さまで来たとき、名人ははじめて声をかけたのです。
「あやまちすな。心して降りよ(失敗するな。気をつけて降りなさい)」
「かばかりになりては、飛び降るるとも降りなむ。いかにかく言ふぞ」と申し侍(はべ)りしかば、「そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、己が恐れ侍(はべ)れば申さず……
(「これくらいの高さなら、飛び降りたってちゃんと降りられるだろうに。どうしてそんなことを言うのかい」と聞いてみた。すると、この名人は、「それなんですよ。高くて目がくらみ、枝が折れそうに危ないときは、本人自身が慎重ですから、注意する必要がありません……)
出典:同上
ピヨたしかに! 怖いところでは、言われなくても慎重になるもんね。



そうなの。名人がすごいのは、木登りの技術だけじゃなくて、人の心がゆるむ瞬間まで知り尽くしていたところなんだよね。
この話を聞いた兼好法師は、いたく感心して、こう書き添えています。
身分の低い男の言葉だけれど、聖人の教えにかなっている――と。
気がゆるむのは、心が弱いからじゃない
ここで大事なのは、名人が「最後まで気を張れ」と言わなかったことです。
高い枝にいるあいだ、人は言われなくても慎重になる。
そして低いところまで降りれば、ほっとして気がゆるむ。
名人はそれを、直しようのない、人の心の自然な性質として扱いました。
だから「ゆるむな」と叱るかわりに、ゆるむ場所を見きわめて、そこでひとこと声をかけたのです。



性質そのものを直そうとしないで、ゆるむタイミングに『声かけ』を置いたんだ。仕組みで解決したんだね。



うん。だから『最後に気がゆるむ自分はダメだ』って責めなくていいの。名人ですら、ゆるむこと前提で段取りしてたんだから。
兼好法師は、蹴鞠(けまり)の話も添えています。
難しい球をうまく蹴り上げたあと、「もう安心」と思った途端に、鞠は必ず落ちる――。
700年前から、人は「あと少し」でつまずいてきました。
あなただけではないのです。
「終わったも同然」は、まだ終わっていない
この名人の知恵、今日から使えます。
たとえば、こんな「軒先」に心当たりはないでしょうか。
メールなら、書き終えて送信ボタンを押す直前。
料理なら、盛り付けて運ぶとき。
車なら、家の近所のいつもの角。
仕事なら、納品や提出の最後のひと手間。
どれも、いちばん難しい部分はもう越えたあと。
だからこそ、名人の声が要る場面です。


「終わった」と思ったら、次に動く前に、ひと呼吸だけおく。
・送信ボタンを押す前に、宛先だけもう一度見る
・帰り道の最後の角で、歩幅を少しゆるめる
・「もう大丈夫」と思った瞬間が、合図です
ずっと気を張る必要はありません。
名人だって、声をかけたのは最後のひとことだけでした。



最初から最後まで完璧じゃなくていいんだよ。ゆるんだことに気づけたら、そこからまた、そっと締め直せばいいんだよ。
木登り名人が教えてくれること
失敗は、難しいところではなく、簡単なところで起きる。
それは心が弱いからではなく、ほっとゆるむのが人の自然な性質だから。
だから名人は、性質と戦わずに、ゆるむ場所で「ひとこと」を置きました。
わたしたちにできるのも、同じことかもしれません。
がんばり続けることではなく、「もう大丈夫」と思った瞬間の、ひと呼吸。
今日のあなたの「軒先」で、この700年前の声が、そっと届きますように。
(兼好の「完璧でなくていい」という考え方は、こちらの記事にも。→ 完璧じゃなくてもいい―『徒然草』がそっと教えてくれる「欠けたものの美しさ」)
ほんのひとときでも、心がゆるむ時間になっていたらうれしいです。
また何かのときに、ふとこの記事を思い出してもらえたら。
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『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(角川書店編/角川ソフィア文庫)
「高名の木登り」は第109段。短い段なので、原文でも数分で読めます。兼好が書き留めた名人のひとことは、700年たった今も、送信ボタンの前や帰り道の最後の角で、そのまま使えます。原文と現代語訳がセットなので、まずこの段だけでも。
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わたしは紙で読む派ですが、気になる方はのぞいてみてください。
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