「今度ゆっくり観よう」と思った映画が、リストにたまっていく。
「落ち着いたら行こう」と話していたお店が、いつのまにか閉店している。
楽しみには、仕事や家事とちがって、締め切りも催促もありません。
後回しにしても、誰にも叱られない。
だから、つい後ろへ後ろへと延ばしてしまうんですよね。
「ぜんぶ片づいたら、そのうち」と言いながら――。

今日は、そんなわたしたちに、300年前の学者がくれた言葉をご紹介します。
『養生訓(ようじょうくん)』を書いた、貝原益軒(かいばらえきけん)の「人生の三楽(さんらく)」です。
人生には、三つの楽しみがある
益軒は『養生訓』の冒頭近くで、こんなことを書いています。
およそ人の楽しむべき事、三あり。一には身に道を行ひ、ひが事なくして善を楽しむにあり。二には身に病なくして、快く楽むにあり。三には命ながくして、久しくたのしむにあり。
(およそ、人が楽しむべきことは三つある。一つめは、正しい道を歩み、まちがったことをせずに、善いことを楽しむこと。二つめは、体に病がなく、気持ちよく楽しむこと。三つめは、長生きして、長いあいだ楽しむこと。)(筆者訳)
出典:『養生訓・和俗童子訓』(貝原益軒著/石川謙校訂/岩波文庫)
読んでいて、気づくことがあります。
三つとも、最後は「楽しむ」で終わっているのです。
正しく生きるのも、健やかでいるのも、長生きするのも、ぜんぶ楽しむため。
益軒にとって、楽しみは人生のおまけではなく、人生の本体でした。
ピヨえっ、養生って、健康のためにがまんする話じゃないの?



わたしもそういうイメージだった。でも益軒先生は逆なんだよ。楽しむために体を大切にしましょう、っていう順番なの。
300年前の、楽しみの達人
貝原益軒は、江戸時代の学者です。
『養生訓』を書いたのは八十歳を過ぎてからで、当時としてはめずらしいほどの長寿をまっとうした人といわれています。
しかもこの人、ただ長生きしただけではありません。
本草学(今でいう薬学や博物学)を学び、各地を旅して、たくさんの本を書き、晩年まで筆を置きませんでした。
好きなことを、長く、たっぷり楽しんだ人。
その人が人生の終わりに書き残した健康法の本が、「楽しむため」から始まっている。
説得力があるなあ、と思うのです。
そして益軒は、体より先に、まず心を養いなさいとも書いています。
養生の術は先(まず)心気を養ふべし。心を和(やわらか)にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさへ、うれひ・思ひをすくなくし、心をくるしめず、気をそこなはず……
(養生の方法は、まず心と気を養うことです。心をおだやかに、気を平らかにして、怒りと欲を抑え、心配ごとや思い悩みを減らし、心を苦しめず、気を損なわないこと……)(筆者訳)
出典:同上
心を苦しめないこと。
楽しみをちゃんと楽しむことは、益軒にとって、心の手入れそのものだったのです。
(益軒が「命の扱い方」をどう書いたかは、こちらの記事に。→ 自分の命を、どう扱って生きていますか−貝原益軒『養生訓』に学ぶ、丁寧な生き方)


「あとで楽しむ」の「あとで」は、なかなか来ない
それにしても、なぜわたしたちは、楽しみを後回しにしてしまうのでしょう。
たぶん、心のどこかで「楽しみは、やるべきことが終わった人のごほうび」だと思っているからです。
やるべきことは次々わいてくるので、ごほうびの順番は、いつまでも回ってきません。
「子育てが落ち着いたら」
「仕事がひと段落したら」
「老後にゆっくり」
でも、益軒の三楽を思い出してください。
楽しむことは、ごほうびではなく、人生の目的のほうでした。
目的を後回しにしていたら、手段ばかりの毎日になってしまいます。



『ぜんぶ片づいたら楽しむ』って、『ゴールしたら走り出す』みたいな話だったんだね。



そうなの。だから順番を入れ替えて、今日のどこかに小さく楽しみを置いていいんだよ。むしろそれが、300年前のお墨つきの正しい養生なの。
わたしも、ものづくりの仕事をしていると、つい「楽しみはあとで」になりがちです。
「あとで」リストの中から、楽しみをひとつだけ前に動かしてみる。
・観ようと思っていた映画の、最初の10分だけ今夜観る
・行きたかったお店を、今週の予定に書き込む
・大きなことが無理なら、好きな飲み物を丁寧に淹れる10分でいい
「やるべきことが残ってるのに」と胸がちくっとしたら、こう唱えてください。
「これは益軒先生のすすめる養生」。



楽しむのは、さぼりじゃないんだよ。300年前から、ちゃんと人生の仕事のうちなんだよ。
「人生の三楽」が教えてくれること
正しく生きる楽しみ。健やかに過ごす楽しみ。長く生きて、長く楽しむこと。
益軒が数えた三つの楽しみは、どれも「いつかのごほうび」ではありませんでした。
楽しみは、人生の本体。
後回しの列から、そっと前へ連れてきていい。
(「小さな次」を置くことについては、こちらの記事にも書きました。→ やり遂げたのに、なぜか寂しい―芭蕉『おくのほそ道』の結びが教えてくれる、祭りのあとの過ごし方)
今夜、ためこんだ映画のリストの中から、一本だけ選んでみませんか。
それはたぶん、300年前の学者がいちばん喜ぶ過ごし方です。


ほんのひとときでも、心がゆるむ時間になっていたらうれしいです。
また何かのときに、ふとこの記事を思い出してもらえたら。
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『養生訓・和俗童子訓』(貝原益軒著/石川謙校訂/岩波文庫)
この記事でご紹介した「人生の三楽」は、巻第一の総論に。養生の本というと節制の話を想像しますが、益軒がまず書いたのは「楽しむこと」でした。楽しみを後回しにしがちな日の、静かなお供にどうぞ。
紙の本で読む
耳で読みたい方へ
本を開く時間がない日は、耳から。
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わたしは紙で読む派ですが、気になる方はのぞいてみてください。
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