下手だから、と趣味をあきらめたあなたへ―『方丈記』の鴨長明が、山の庵でひとり奏でていた理由

昔は好きだったのに、「下手だから」とやめてしまったこと、ありませんか。

歌うこと。絵を描くこと。楽器。手芸。文章。
続けていても、ふと恥ずかしくなるのです。
「この年で、この程度」「人に見せられるレベルじゃない」「上手な人はいくらでもいる」――。

SNSを開けば、プロ級の趣味の作品が並んでいます。
それを見るたび、自分の「下手の横好き」が、なんだか場違いなものに思えてくる。

今日は、そんなあなたに、800年前の先輩をひとり紹介させてください。
『方丈記(ほうじょうき)』を書いた鴨長明(かものちょうめい)。
山の奥の四畳半ほどの庵(いおり)に、わざわざ楽器を持ち込んだ人です。

目次

庵に、琴と琵琶があった

長明は、世を離れて日野の山奥に小さな庵を結びました。
持ち物を最小限まで減らした暮らし。ところがその庵の壁ぎわには、意外なものが立てかけてありました。

折りたたみ式の琴と、組み立て式の琵琶。
狭い庵に合わせて、コンパクトにあつらえた楽器です。

ほとんど全部を手放した人が、音楽だけは、手放さなかった。
そして長明は、庵での演奏について、こう書いています。

もし、余興(よきょう)あれば、しばしば松の韻(ひびき)に秋風楽(しゅうふうらく)をたぐへ、水の音に流泉(りゅうせん)の曲をあやつる。芸はこれ拙(つた)なけれども、人の耳を喜ばしめんとにはあらず。独り調べ、独り詠じて、みづから情(こころ)を養ふばかりなり。

(もし、それでもなお興趣がつきないと、よく、松風の音に合わせて、琴で秋風楽を奏してみたり、谷川の音に合わせて、琵琶で流泉の曲をかなでたりする。これらはむつかしい曲であるし、私の技能は拙劣だけれど、他人に聞かせて、喜ばそうというのではないから、かまやあしない。自分ひとりで演奏し、ひとりで歌って、われとわが心の慰めとするだけのことなんだ。)

出典:『方丈記 現代語訳付き』(鴨長明/簗瀬一雄訳注/角川ソフィア文庫)

芸はつたないけれど、人に聴かせるためではないから、それでいい。
ひとりで奏でて、ひとりで歌って、自分の心を養うだけ。

800年前の山の中に、「下手の横好き」の、いちばん美しい弁護があったのです。

「つたなし」と書いた人の、本当の腕前

ピヨ

長明さんって、ほんとに下手だったの?

ミミ

実はね、長明さんは都にいたころ、音楽をきちんと師匠について学んだ人だといわれているの。だから『つたなし』は、たぶん謙遜まじりなんだよ。

でも、大事なのはそこではありません。
長明は、上手い下手の話を、きっぱり手放しているのです。

注目したいのは、「人の耳を喜ばしめんとにはあらず」という一文です。

上手か下手かという物差しは、よく考えると、「人に聴かせる」「人に見せる」ことが前提の物差しです。
観客がいるから、比べられる。発表するから、恥ずかしい。

でも、誰にも聴かせない演奏に、その物差しは出番がありません。
松風と水の音だけが相手なら、あるのは「心地よいか、どうか」だけ。

長明は、庵にこもって芸を磨いていたのではなく、物差しのほうを置いてきたのです。

趣味は、うまさではなく「心の栄養」で測っていい

「みづから情を養ふ」――自分の心を養う。

わたしはこの言葉が、趣味というものの、いちばん正確な定義だと思っています。

下手な鼻歌でも、歌えば胸のつかえが少し下りる。
不格好なスケッチでも、描いている間は頭が静かになる。
編み目がそろわなくても、手を動かした夜は、よく眠れる。

上達していなくても、披露できなくても、心はちゃんと養われています
それは無駄でも停滞でもなく、その趣味が仕事を立派に果たしているということです。

ニャム

『上手にならないなら意味がない』って、よく考えたら変な話だね。おいしいごはんに『料理人になれないなら意味がない』って言わないのに。

ミミ

ほんとだね。趣味は心のごはんだから、味わえていれば、もう満点なんだよ。

わたしは、ものづくりを仕事にしています。

仕事にしているからには、「趣味だから」という心構えではいられません。
買ってくださる方に失礼になるし、自分の作品には自信を持って、世の中に出したい。

でも、いちばん大事にしているのは、自分が楽しんで作ることです。
楽しんで作れなかったものには、愛着が持てない。
そしてそれは、買ってくださる方にも伝わってしまうからです。

長明が書いたのは趣味の話ですが、仕事になっても、根っこは同じなのだと思います。
まず自分の心が養われていること。人に届くのは、そのあとです。

「下手だから」とやめてしまったことをひとつ、誰にも見せない前提で、5分だけ再開してみる。

・鼻歌なら、家事をしながらワンコーラス
・絵なら、裏紙にボールペンで
・録音しない、投稿しない、上達を目指さない。「心地よかったか」だけ確かめる

終わったら、心の中でひとこと。
「これは、心を養う時間」。800年前からある、由緒正しい過ごし方です。

モコ

下手なままで楽しめるものがあるって、幸せなことなんだよ。うまくならなくても、心はちゃんと育ってるからね。

「つたなき芸」が教えてくれること

ほとんどすべてを手放した人が、下手な楽器だけは手放さなかった。
人に聴かせるためではなく、自分の心を養うために。

あなたの「下手の横好き」も、同じです。
比べる物差しは、人に見せるときだけ持てばいい。
ひとりで楽しむ時間には、心地よさだけを連れていけばいい。

今夜、久しぶりに、あれを取り出してみませんか。
松風のかわりに、換気扇の音でも、800年前とちゃんと同じことができます。

(同じ庵で長明がしていた「ひとりの遊び方」は、こちらの記事に。→ 週末、誘われる予定がないあなたへ―鴨長明の「桜を狩り、紅葉をもとめ」という遊び方

ほんのひとときでも、心がゆるむ時間になっていたらうれしいです。
また何かのときに、ふとこの記事を思い出してもらえたら。

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琴と琵琶の場面は、庵の暮らしを描いた後半にあります。方丈記は原文でも驚くほど短く、一晩で読み切れる長さ。災厄の記録として知られる本ですが、後半には、ひとりの豊かさが静かに書かれています。「桜を狩り」の記事と合わせて、庵の暮らしをのぞいてみてください。

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この記事を書いた人

おしゃれなカフェより
家でのんびり本を読む時間が落ち着くうさぎ
静かな時間と、心に残る言葉が好き。
昔の人の生き方から
今を生きるヒントを探しています。

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