心から信頼できる人は、いないのかもしれない。
ふと、そう思うことはありませんか。
わたしは、そう思っています。
今まで生きてきて、親兄弟でも、多少なりともぶつかることはある。結局、自分と同じ人間はいないわけですし。
そう思うと、少しさみしくなります。
誰とも、ほんとうにはわかり合えないのだとしたら、わたしはずっとひとりなのだろうか。
心から信頼できる人、というとき、わたしたちはどこかで「自分と同じように感じてくれる人」を思い浮かべているのかもしれません。
今日は、そんな日に読んでほしい一節を紹介させてください。約700年前、兼好法師(けんこうほうし)が『徒然草(つれづれぐさ)』に書いた、第12段です。

「同じ心ならむ人」は、いそうにない―兼好法師も、そう書いていた
同じ心ならむ人と、しめやかに物語して、をかしきことも、世のはかなきことも、うらなく言ひ慰(なぐさ)まむこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違(たが)はざらむと向かひゐたらむは、独りある心地やせむ。
(気持ちのぴったり合うような相手と、心静かに語り合い、おもしろい話題や人の世の無常などを取り上げ、本音を吐いてすっきりするのは、楽しいに決まっている。しかし、そんな相手はいるはずもないので、相手の意に反しないように、気を遣いながら向かい合っているとしたら、逆に孤独感が湧いてくるのではないだろうか。)
出典:『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(角川書店編/角川ソフィア文庫)
兼好も、気持ちのぴったり合う人と何でも語り合えたら楽しいだろう、と書いています。
そして、「さる人あるまじければ(そんな相手はいるはずもないので)」と続けます。
ピヨ700年前の人も、”わかり合える人がいない”って思ってたの?
そうなのです。心から何でも話せる人は、いそうにない。兼好も、そこから書きはじめています。
気を遣って向かい合ったら、「独りある心地」
でも、この文には続きがあります。
「つゆ違はざらむと向かひゐたらむは、独りある心地やせむ」。
本の訳では、相手の意に反しないように、気を遣いながら向かい合っているとしたら、「逆に孤独感が湧いてくるのではないだろうか」。
ここで、はっとしました。
わたしたちは、ぶつからないように気をつかいます。相手の意見に、うなずく。言いたいことを、のみこむ。違うところを、見せないようにする。
けれど兼好は、そうやって少しも違わないようにしていたら、ひとりでいるのと同じ心地だろうと書いているのです。



ぜんぶ相手に合わせてたら、相手も、鏡としゃべってるみたいになっちゃうもんね。


少しも違わない相手と向き合うのは、ひとりでいるのと変わらない。
だとしたら、「自分と同じように感じてくれる人」を探すほど、わたしたちはひとりに近づいてしまうのかもしれません。
言い合える人がいい、と思ったけれど
兼好は、さらにこう続けます。
互ひに言はむほどのことをば、げにと聞くかひあるものから、いささか違ふところもあらむ人こそ、「我はさやは思ふ」など争ひ憎み、「さるからさぞ」ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思へど、げには少し、かこつ方も我と等しからざらむ人は、おほかたの由なしごと言はむほどこそあらめ、まめやかの心の友には、遥かに隔たるところのありぬべきぞわびしきや。
(互いに言いたいことを言い合うと、相手の意見が、なるほどと耳を傾ける価値はあるけれども、自分と少し異なる場合もある。そういう相手とは、「自分はそうは思わない」などと反論し、「そういうわけでそうなのだ」などと論じ合ったら、退屈しのぎにはよいだろうと思う。けれども、実際には、人の世を嘆く話題のときでも、自分と少し合わない相手の場合、雑談している間は我慢できるが、ほんとうの心の友に比べると、遠く及ばないものだと思い知らされて、なんとも寂しくなってしまう。)
出典:同上
少し違うところのある人と、「わたしはそうは思わない」と言い合う。「だから、こうなのだ」と語り合う。
そうできたら、退屈しのぎにはなるだろう。兼好は、いったんそう考えます。
けれど、「げには(実際には)」と、もう一度ひっくり返します。
自分と少し合わない人とは、雑談をしているあいだはいい。けれど、ほんとうの心の友には、遠く及ばない。それが、わびしい。
兼好は、答えを出しきっていません。
同じ心の人がほしい。でも、少しも違わないように向き合うのは、ひとりと同じ。違う人と言い合うのもいい。でも、それでは心の友には遠い。
行ったり来たりして、この段は「わびしきや」で終わります。



兼好さんも、さみしかったんだね。なんだか、ほっとする。
違うところを残したまま、続けていく
わたしは、こう思っています。
気持ちを調整しつつどこか妥協しつつ、そうやって続けていくのが人間関係なのかな、と。
兼好の一節を読んで、この「調整しつつ妥協しつつ」には大事なことが入っている、と気づきました。
調整や妥協は、「少しも違わないようにする」こととは違います。
全部を相手に合わせきるのではない。自分の違うところを残したまま、少しずつすり合わせる。
だから、ぶつかることもある。
でも、ぶつかるのは、自分とは違う「もうひとり」がちゃんとそこにいるからなのだと思います。
違うところがあるのは、ひとりではないしるし。
心から信頼できる人がいないと感じるのは、あなたが冷たいからでも、ひとりぼっちだからでもないのかもしれません。
自分とは違う人と、ちゃんと一緒にいるから、わかり合いきれない。
そのわかり合いきれなさごと、続けていく。それが、人とつながっているということなのだと思います。
最近ぶつかった人をひとり思い浮かべて、その人と自分の『違うところ』を、ひとつだけ言葉にしてみる。
・「あの人は先に決めたい人、わたしはゆっくり考えたい人」のように
・どちらが正しいかは、決めなくて大丈夫
・言葉にできたら、「だから、ひとりじゃないんだな」と思ってみる
全部わかり合えなくても、大丈夫です。
兼好が「独りある心地」と書いたのは、相手に合わせて、気を遣いながら向かい合ったときでした。



違うままで、そばにいていいんだよ。
わかり合いきれない人と、今日も
兼好は、この段を「わびしきや」で終えました。
本の解説は、この段で兼好が、友を三つに分けていると読んでいます。気持ちがぴったり合う友、よく合わない友、半分くらい合う友。
そして、ぴったり合う「心の友」は、現実にはいない友で、心の中にしかいないのだ、と。
その次のページに、第13段があります。
ひとり灯りのもとで本を広げ、会ったことのない昔の人を友とする。それは、このうえなく心がなぐさむことだ、と兼好は書いています。
目の前には、ぴったり合う心の友はいないのかもしれません。
けれど兼好は、本の中に、時代を超えた友を見つけていました。
(その第13段のことは、こちらの記事に書きました。→ さみしい夜は、千年前の友だちに会いに行く―『徒然草』の「見ぬ世の人を友とする」)
心から何でも話せる人は、いないのかもしれません。
それでも違う人と、ぶつかりながら調整しながら、今日も誰かといる。
そして、ぴったり合う友は、心の中に、本の中にいてもいい。
それで、いいのだと思います。
ほんのひとときでも、心がゆるむ時間になっていたらうれしいです。
また何かのときに、ふとこの記事を思い出してもらえたら。


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『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(角川書店編/角川ソフィア文庫)
今回の第12段は、「友あれど心の友はなし」という見出しの段です。次のページは、灯りのもとで本を広げる第13段です。原文と現代語訳がそろっているので、約700年前の人の本音に、そのまま触れられます。
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