ふとした瞬間に、気づいてしまうことがあります。
久しぶりに会った親の、背中が小さくなっていたこと。
電話の声から、以前の張りが少し消えていたこと。
同じ話を、二度されたこと。
「親も、年をとったんだな」――。
そう思った次の瞬間、胸の奥がすうっと冷たくなって、あわてて考えるのをやめる。
そして今日も、「また今度、顔を出すね」と言ってしまう。
今日は、千年前の「会いに行けない子」と、その母の話をさせてください。
『伊勢物語(いせものがたり)』第84段に残る、二首の歌の物語です。
十二月に届いた、母からの手紙
昔、ある男がいました。
母親は、都から離れた長岡というところに住んでいます。
男は京で宮仕えをしていて、会いに行こうとは思うのですが、なかなか行けません。
男は、一人っ子でした。母にとって、たったひとりの子で、母はたいそうかわいがっていました。
そんなある年の十二月、母から「急ぎの用」として手紙が届きます。
驚いて開けてみると、そこにあったのは用件ではなく、一首の歌だけでした。
老(お)いぬればさらぬ別(わか)れのありといへばいよいよ見(み)まくほしき君(きみ)かな
(老いてしまうと避けられない別れ(=死別)があるというので、ますますお逢いしたいあなたです。)
出典:『伊勢物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(坂口由美子編/角川ソフィア文庫)
「さらぬ別れ」――避けられない別れ。
母は、「会いに来なさい」とは書きませんでした。
責める言葉も、寂しさの訴えも、ひとつもありません。
ただ、「会いたい」とだけ。

泣きながら詠んだ、子の返歌
この歌を受け取った男は、激しく泣いて、返歌を詠みました。
世(よ)の中(なか)にさらぬ別(わか)れのなくもがな千代(ちよ)もと祈(いの)る人(ひと)の子(こ)のため
(世の中に避けられない別れがないといいのになあ、親が千年でも生きて欲しいと祈る人の子のために。)
出典:同上
千年も生きてほしい。
かなわない願いだと、男自身がいちばんわかっています。
それでも、そう祈らずにいられない。
ピヨこれを詠んだのは、どんな人だったの?



在原業平(ありわらのなりひら)がモデルといわれているよ。恋の歌で有名な人だけど、この段だけは、ただの『お母さんに会いに行けていない息子』なの。千年前のえらい歌人も、そこはわたしたちと同じだったんだね。
「また今度」の向こうで、想いは往復している
この段を読むたびに、思うことがあります。
母と子は、会えていませんでした。
でも、想いは、ちゃんと往復していたのです。
母は「会いたい」を手紙にして送り、子は泣いて「千代も」と祈りを返した。
会えない距離のあいだを、二首の歌が行き来して、千年たった今も、その往復はこうして残っています。
わたしたちの「また今度ね」は、たいてい、後ろめたさと一緒にあります。
忙しさを言い訳にしている自分を、少し責めながら電話を切る。
(「また今度」を、責めずにほどく話は、こちらの記事にも。→ 楽しみを後回しにしていませんか―『養生訓』の貝原益軒がそっと教えてくれる「人生の三楽」)
でも、責める気持ちで凍りついてしまうより、小さな往復をひとつ増やすほうが、ずっといい。
会いに行けない日にも、できる往復があります。
ひとことの連絡。一枚の写真。「元気?」だけのメッセージ。
千年前のあの母が教えてくれるのは、親が本当にほしいのは、立派な親孝行ではなく、往復が続いていることなのかもしれません。





お母さんの手紙、『急ぎの用』って書いてあったのに、中身は『会いたい』だけだったんだね。



うん。きっとね、お母さんにとっては、それがいちばんの急用だったんだよ。
わたしも、この親子のように、親と離れて暮らしています。
簡単に会いに行ける距離ではないので、この歌は、とても心にしみました。
親は、会いたい。
でも、子どもには子どもの生活があって、忙しくしていることを知っている。
だから、強くは言わない。
それは、親なりの愛情で、気遣いなのだと思います。
千年前の母が手紙に書いたのも、「会いに来なさい」ではなく「会いたい」だけでした。
子を思う親というものは、きっと、時代を超えても変わらないのでしょう。
今日か明日、親(または親のように大切な人)に、用のない連絡をひとつだけ送ってみる。
・「元気?」だけでいい。「これ食べた」の写真一枚でもいい
・返事の中身より、往復がひとつ増えたことが宝物です
・会える距離なら、次に顔を出す日を、カレンダーに小さく書いておく
「また今度」を、「今度の◯日」に変える。それだけで、千年前の母は、きっと十分うれしいのです。



立派なことをしなくていいんだよ。『元気?』のひとことが、ちゃんと『会いたい』の返事になってるからね。
「さらぬ別れ」が教えてくれること


避けられない別れがあるから、会いたい。
会えない日々のあいだも、想いの往復は続けられる。
千年前の母と子の二首は、そのことを、責める言葉をひとつも使わずに教えてくれます。
そして――もう「また今度」の言えない別れを、すでに経験された方へ。
あの子の「千代も」の祈りが千年残っているように、あなたが送った想いも、受け取った想いも、消えてはいません。往復の記録は、ちゃんとあなたの中に残っています。
今夜、ひとことの往復を、ひとつだけ。
それが、この千年前の手紙への、いちばんの返事になる気がします。
ほんのひとときでも、心がゆるむ時間になっていたらうれしいです。
また何かのときに、ふとこの記事を思い出してもらえたら。
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『伊勢物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(坂口由美子編/角川ソフィア文庫)
母と子の贈答歌は第84段。恋の物語で知られる伊勢物語の中で、ひときわ静かに光る段です。原文と現代語訳のセットで、千年前の「会いたい」に触れてみてください。
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わたしは紙で読む派ですが、気になる方はのぞいてみてください。
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